うそwizardry日記5

町外れの訓練場には僕が冒険者登録を行った事務所のほかに、野球*1ができそうな程度の正方形のグラウンドと、この街一の蔵書が眠る図書館、それに連なるようにして魔法の研究室と屋内訓練施設(高校のときの体育館より狭くて天井の低い石造りのドーム上の建物)が併設されていた。ここでは日夜、「地下迷宮」とやらに挑戦し続ける冒険者たちが昼夜絶えず行き交っている。今僕がいるロビーの2番受付で、6人の冒険者たちが遭難に備え、地下に行く前に名前を記している。訓練場を抜けて丘のふもとに行けば迷宮が大口を開けて待っているらしいが、僕はまだ見ていない。なぜなら、僕は冒険者として認められたものの、まだ迷宮に下りる許可をもらっていないからだ。

「『あ』、だと、いいかげんにしろ、人の名前を―」
両親が、姓名判断と鑑定を青森在住のとんでもなくすごい占い師にみてもらい、紀伊国屋書店でありとあらゆる命名関連の本を買いあさり、検討に検討を重ねた結果、長男だから「ハジメ」になったという経緯を、この目の前の小太りのオッサンにベリー・ローダン級の特大長編で明らかにしてやろうと思った僕に、後ろで静観していたコーヴァーが僕の肩にそっと触れ、制した。
ハジメ君、落ち着きたまえ。この様な事はよくある」
苦々しく、そして嫌みったらしく「そぉですよぉ〜」と続けざまに汚い口を吐いた小太りオッサンを、僕は殴ろうとしたが、触れただけのコーヴァーの手は思ったより固く、僕の肩を押さえて離さなかった。
「いいですか、冒険者登録の際に、まず本名で登録することはできません。本名を明かすことは呪術で殺してくれ、って言ってるようなものですからね。仲の悪い冒険者同士が呪いのかけあいになり実に1000人以上の犠牲者が出たことは記憶に新しい事です」
小太りオッサンはそのことを思い出したのだろうか、額に汗をにじませ微震した。汗が目の前に書類に少し掛かる。「それに、エルフの本名なんて当人たちも知らない発音が混じったり、書き示すのにトイレット・ペーパーを何ロール用意するんだ、って事もありますからね」
「だから、我々は略称や、愛称を使って登録する。別に、戸籍の登録をするんじゃないからな。割と、いい加減なもんだよ。名前を照会に使うくらいで後の項目なんかそのまま冷たい土蔵の金庫行きさ」
言って、コーヴァーが笑う。「かく言う私も『コーヴァー』と名乗っているが、本名は小林タツジと言うんだ、ダサいだろう」
えー、もろ日本人じゃんと思ったが、話がややこしくなりそうなので苦笑いを浮かべるだけにしておいた。
「それで、秋本ハジメさんなんですが…思いっきり本名を記入したため、『冒険者登録条例』及び『冒険者管理に関する安全確保兼健康兼身辺にいかなる悪影響も与えてはならない関連法』に基づきまして、当初の登録名をこちらで自由なものに代えさせていただきました。齢150を超えた、命名仙人・ネーミントロールにありがたいお名前を頂きました。この道のプロですからね、仙人様は」
僕は眉根を上げ、眉間に皺を寄せ小太りおっさんを睨んで、半ば確信的だったが、一抹の希望を元に、予定調和を打破せんと言葉を発した。
「…それがまさか、『あ』じゃないだろうな」
向かい合った小太りオッサンは、眉根を上げ、眉間に皺を寄せてこちらを睨み、レンズが小さくて丸い下品な眼鏡の縁を、人差し指と薬指で直しながら、言葉を発した。
「…もしそうだと言えば、それは私の身を危険に晒す状況になりますか?」
僕は表情を変えずに頷いた。
「じゃあノーです」
僕はオッサンに向かって右ほほに、拳をくれてやった。

今さっき、訃報が入った。僕の第2の人生を象徴するような名前、「あ」という語を絞り出すように叫んだ後、ネーミントロール仙人が亡くなったそうだ。支度部屋でやけに静かな仙人を不思議に思った弟子が確認したところ、息をしていなかったらしい。眠るように、そして安らかな笑みを浮かべて彼は旅立っていた。153年の生涯はいやにあっけなく、しかし命名をし、そして逝くという最後は職人明利に尽きる事なのではなかったのだろうか。また、冒険者に新しい名前をつけてこのときを迎えたということが、「始まりと終わり」を意味しているのは偶然でも過言でもないだろう。
僕は仙人の弟子9人、弟子の弟子34人、弟子の付き人28人、弟子の弟子の付き人98人、弟子の付き人の見習い73人、弟子の弟子の付き人の見習い148人、全員に泣かれながら握手を交わし、仙人の唯一の親族だった仙人の孫・フローネーミンにひたすら感謝の言葉を浴びせられ、全員に見守られながら訓練場を後にした。振り返ったら小太りのオッサンまで泣いていた。何でお前まで泣く。

すっかり暗くなった道を明るい方明るい方へと向かう僕に、横に居たコーヴァーがつぶやくように、言った。
「…レベル、1」
『あ』のインパクトで影が薄くなってしまったが、そうなのだ。僕はレベル1なのだ。今思い出して、僕の脳は「ところでレベル1ってなんだろう」と衝撃から悩みに移行したが、言ったらコーヴァーに怒られそうなので言わないことにした。
「レベル計測呪文に間違いは絶対にない。だとしたら、やはり…」
いやな、予感はしていた。小林タツジと言って破顔したときも、彼のその目は僕を冷たく見下ろしていた。手に乗るげっ歯目の群れに一匹だけ黒い猛禽類が存在を隠しながら僕にささやいていたのだ。あまりも小さな、ささやきだったけれど。いやな、予感と言うヤツだ。人間が理性を得ても最後に残った本能のうちの、生きる上で割と重要な。
「…ハジメ君、君は―」

なんとなく、理解しはじめていた。そう、僕は、魔王を倒すことも、お姫様を救い出すこともできないと。彼の言葉が冷たく僕に突き刺さると、言葉の槍は僕を地面まで貫いて、身動きさせることを封じた。僕がここに来ての希望は、彼の一切の否定で、うじうじ考えることも、最初から見直し算をさせることも拒み、真っ暗な夜空だけが慰みのように僕にのしかかった。

*1:この世界には「Wizボール」という野球に似たスポーツもあるらしい